江戸城大奥は、東京の名所の中でも見逃せない別格のスポットです。
せっかく東京にいるのだったら、超有名な江戸城大奥は絶対に見逃せないスポットです。
もう存在しないので、正確には江戸城大奥跡と呼ばれます。
場所は江戸城本丸があったところです。
そこは現在では皇居東御苑になるので、江戸城の大手門から入ります。
いまでは芝生に覆われていてもう絢爛豪華な御殿はありません。
それでも、少しの想像力と多少のnet検索の知識があるだけで、
CG画像を見るように当時の様子が目の前に広がります。
もし映画やドラマで大奥を見たことがあったら、もっと鮮明にイメージできるはずです。
江戸城大奥跡は東京駅から歩いて15分ほどの距離にあります。
また、地下鉄大手前駅からは10分ほどで行くことが出来ます。
まさか、こんなに近いところに大奥があったとは少し驚きませんか。
だからこそ、江戸城大奥は外せないスポットなのです。
特に地方から東京に来た人にはとてもお勧めしたいスポットです。
そんな歴史体験をした帰りには、丸の内のカフェでタイムスリップしていた
心と身体を現代にまで巻き戻しておきましょう。
江戸城に大奥が設けられた理由
江戸城大奥では、三代将軍徳川家光の乳母、春日局がその創成期に権勢を誇ったことで有名です。
また、春日局が大奥を組織的に整備したことには理由があります。
徳川家康から将軍家の世継ぎを絶やすことの無いよう指示をもらっていたようです。
将軍家の血筋を絶やさないために、
将軍の正室や側室は世継ぎの男子を産むことを期待されました。
そうして、春日局は、将軍家の世継ぎを絶やさない方法を模索した結果、
大奥の組織化を進めていきました。
家康と同時代を生きた豊臣秀吉には子供がひとりしかおらず、
縁組みなどでの豊臣家の拡大戦略がとれませんでした。
結局は滅亡していきます。
その反対に、家康は多くの子供を残しました。
「子孫を多く残すことが繁栄の道」。
何よりもその大切さを身にしみて知っていたのです。
江戸城大奥の面積は野球場ほどの広さです。
江戸城本丸の広さは野球場3面分ほどの広さです。
南北に野球場を三面を並べたイメージです。
実際のその場に立ってみると、広大というよりも手狭なように見えます。
そこには実際に正規に働く300人ほどで住んでいました。
それに加えて、非正規に雇用されていた女性が300人くらい暮らしていたようです。
しかし、そう考えてみると少し狭かったと思います。
江戸城本丸御殿の配置図
江戸城本丸御殿
この天守閣から見える大芝生とその周辺には、
江戸城本丸御殿の建物が建ち並んでいました。
本丸御殿は、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)という
三つの空間に分かれていました。
表は、将軍の謁見(えっけん)などの公的な儀式・行事、幕府緒役人の執務の場で、
中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、
大奥は御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ
家族や女性たちの生活の場でした。
江戸城本丸御殿の配置図を見ると、
将軍が公式な政務を行う表は、中奥、大奥に比べると1/3それほどしかありません。
それはきっと、将軍は日常生活と政務を行う中奥に詰める時間が
多かったからでしょう。
この御殿の構造は、政務と子作りの目的のための御殿だったことが良くわかります。
将軍がお世継ぎ候補をたくさん作ることの
精神的体力的な負担はとても重荷だったことでしょう。
宮内庁HP https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_kokyo.html