壬申の乱の戦いに敗れ三河に逃れた大友皇子。
父である天智天皇は弟の大海人皇子に皇位を譲るつもりでしたが、
しかし気が変わってしまい、自分の息子の大友皇子に皇位を譲ろうと思いました。
その身の危険を感じた天智天皇の弟の大海人皇子は奈良の𠮷野に身を隠しました。
しかしそれは、クーデターを起こすための準備でした。
やがて蜂起した大海人皇子は672年にクーデター(壬申の乱)を起こし勝利しました。
無念にも壬申の乱に敗北した大友皇子(弘文天皇)は実は三河に落ちのびていたのでした。
そんな伝説がここに伝わっています。
現在の地名は岡崎市西大友町。
大友皇子が住まわれていたので、今もなお「大友」の地名が旧来からの地名です。
大友天神社の由緒書が当時を伝えています。
壬申の乱の戦いに敗れ三河に逃れた大友皇子のことを伝えています。
大友天神社
御祭神 弘文天皇(大友皇子)
鎮座地 愛知県岡崎市 西大友町字天神十番地
由緒
往昔 天智天皇の長子
大友皇子は壬申の乱に会い
従者長谷部信次等と此の
地に流偶し 草庵を結ぶ
皇子は「天性明悟にして
雅より博古を愛ます」
と懐風藻にあり
後に信次 皇子の為に
一祠を創建奉崇し 之を天神宮と称し
その所在地を大友と云い
村落を長瀬村と呼ぶ
明治九年供進指定村社
祭礼日 十月十八日
大友天神社社殿の扁額は横井時常第2代近江神宮宮司の揮毫です。
大友天神社社殿のこの扁額は横井時常第2代近江神宮宮司の揮毫です。
もうおわかりと思いますが、
近江神宮はもともと大友皇子が住んでいた滋賀県の大津の宮のあったその場所に建てられた神社です、
そしてその近江神宮の祭神は大友皇子の父、天智天皇です。
その由緒とプライドを示すかのように、手入れと清掃の行き届いた社殿があります。
きっとこの辺りに住む人たちは、大友皇子と血のつながりがあるか、もしくは、
なにがしかの繋がりのある子孫なのでしょう。
大友天神社はその人たちによく守られていることがわかります。
大津市に弘文天皇の御陵がある。
大津の歴史事典 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/225.html