壬申の乱で破れた大友皇子の墓が岡崎市にあります。
壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の弟、大海人皇子と天智天皇の息子、大友皇子との戦いのことです。
近年では、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)が夫である大海人皇子(後の天智天皇)の皇位継承のために、近江を去り吉野でいの準備を行い、兄である天智天皇が亡くなった後に、兄の息子の大友皇子を討つことを説得したのではという説も有力になっているようです。
とはいっても下の一覧のように、大友皇子は鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)の弟でもあります。
壬申の乱で破れた大友皇子の墓があるのは、戦に負けた大友皇子が岡崎まで落ちてきたからと伝わっています。
壬申の乱に関わる天智天皇から見た人間関係
第38代天智天皇(中大兄皇子・なかのおうえのおうじ)(626-672)
天智天皇の弟 第40代天武天応(大海人皇子・おおあまのおうじ)(?-686)
天智天皇の娘 第41代持統天皇(鸕野讃良皇女・うののささらのこうじょ)(645-703)大海人皇子の妃
天智天皇の息子 第39代弘文天皇(大友皇子・おおとものおうじ)(648-672)
小針古墳と大友皇子(第39代弘文天皇)の塚
このあたり一帯は、往時大小14基の古墳があって壮観を呈していたが 明治以降開墾のため破壊され この柵内の小高い円丘 俗称大塚のみが原形を保っている。
もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが残存している。
この古墳は大古から大友皇子の塚だという伝説がある。
すなわち 今を去る1300年の昔、天智天皇崩御の後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人(おおあま)皇子(第40代天武天皇)が𠮷野で挙兵し、近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した(西紀672年、御歳25才)。
これを壬申の乱とよぶ(日本書紀)。
しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」によると「大友皇子は自害したといいふらして、密かに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。
従者 長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。
これが大友天神社である。
大友という村名もこれに起因する。
という説がある。
この塚は現在小針町字城跡123番地 市川金平氏の所有で、同家で先祖代々鄭重に守護し来っている。
なお大友皇子は明治3年に弘文天皇と贈り名され、御陵は大津市に建てられている。
昭和46年12月
名古屋菱重興産株式会社 建之
(現MHIファシリティーサービス株式会社)
大友皇子が敗れた壬申の乱から30年後の702年に持統天皇は三河に行幸されます。
壬申の乱から30年後の702年に持統天皇は三河に行幸されます。
そして村積山の頂上の村積神社に参拝されます。。
このときには天皇を退位されており上皇の地位にありました。
もしかしたら、持統天皇は弟の大友皇子(弘文天皇)が三河に落ちのびたことを知っていて、三河まで会いに(なくなっていた場合には弔いに)来たのかも知れません。
そのとき持統天皇は、壬申の乱で破れた実の弟の大友皇子の墓に参ったのでしょうか。
春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天香具山。
万葉集に収められている持統天皇の有名な歌です。
壬申の乱から20年以上経った自分の都、藤原宮(694年~710年)にあって詠んだ歌です。
女性らしい感性で先帝の天武天皇と自分とで作り上げた藤原京から見える風景を詠んでいます。
壬申の乱という命をかけた厳しい戦いをかいくぐった天皇の歌とは思えないほど平和なのどかさを詠んでいます。
記紀万葉 https://kikimanyo.info/jinshin/jinshin-interview1
見晴らしのよいこの写真は徳川四天王のひとり榊原康政が生まれた上野城跡(豊田市)から見た村積山です。
真ん中に見える三角の山が村積山です。
本当に大友皇子(弘文天皇)が三河に逃れて来ていたなら、きっと村積山を大津宮から見える近江富士に見立てて毎日を過ごされていたのでしょう。
再起を図る機をうかがっていたのでしょうか。
ここ上野城跡から南に行くと大友東、大友西という地名があります。
そこには今でも説明にある大友天神社があります。