上野公園に東照宮があります。
そして五重塔の向こうの上野動物園の中には藤堂高虎の墓があります。
上野動物園は明治15年(1882)に寛永寺の元敷地内にできた施設ですが、藤堂高虎は天海と共に元和2年(1616)に家康の枕元で聞いた遺言を実現するために寛永寺創建の場所として自分の屋敷を提供しました。
上野動物園ができる266年前の出来事です。
寛永7年(1630)に高虎が74才で亡くなりました。
そのとき寛永寺の天海(寛永20年(1643)没)は、ここを高虎の墓所としました。
もともと彼の屋敷跡なのですから当然のことと言えます。
上野公園に東照宮がある。五重塔は上野動物園内にあるのですがそのことを不思議に思っていたらその理由が説明されていました。
上野公園に東照宮がある。
五重塔は上野動物園内にあります。
そのことを不思議に思っていたらその理由が説明されていました。
それは、明治の廃仏毀釈の難を避けるための名残だったようです。
当時の尊皇攘夷の考えからすると東照宮と五重塔という神仏習合の形は許されなかったのです。
東照宮略記
祭神 徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
縁起
元和2年2月(1616年)見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造ってほしい遺言された。
そこで高虎の家屋敷であるこの上野の山に寛永四年(1627年)に本宮を造営した。
その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安4年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
文化財
唐門(左甚五郎作竜)透塀拝殿(金色殿)幣殿 本殿 棟札
銅灯篭表参道大石鳥居 以上重要文化財
紅葉山鳥居(寛永3年)石灯篭220基(慶安4年)水舎門(慶安4年)お化灯篭(寛永8年)
新門辰五郎水舎(明治6年)
神楽殿(明治7年匂配の美都下随一)陣羽織(都重宝)辻ヶ花染め胴服(都重宝)
上野動物園は寛永寺跡の敷地内にできた施設ですが、その上野動物園内に藤堂高虎の墓があります。
藤堂高虎は天海と共に家康の枕元で聞いた遺言通り、寛永寺創建の場所として自分の屋敷を提供しました。
旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)
Five Storied Pagoda
寛永8年(1631年)土井利勝により上野東照宮(寛永4年(1627年)創建)の一部として五重塔が建立、寄進されました。
寛永16年(1639年)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。
以前この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。
明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。
当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが、美しい姿をなんとしてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし塔は寛永寺の所属であるとあると国に申し出ました。
東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたが、その機転により取り壊しは免れました。
寛永寺の所属となったものの、寺からは距離があり管理が難しいことから昭和33年(1958年)東京都に寄付されました。
現在は動物園の敷地内にございます。
塔の高さは32m。江戸時代の多くの五重塔が初層からから第4層までを和風、最上層のみを唐風とするのに対し、この塔は前奏が和風様式です。
建物内部には心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代建築の五重塔に多く見られるのに対し、このとは土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔によく見られる構造で建てられています。
屋根は初層から第4層が本瓦葺き、最上階は銅瓦葺きを使用しています。
初層ッ情報には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されています。
関東大震災でも倒壊せず戊辰戦争や(第2次大戦)でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の一つとして明治44年(1911年)国の重要文化財に指定されました。
以前塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる彌勒・薬師・釈迦・阿弥陀の四体の仏像が安置されていました。
第2次大戦中、五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。
その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮境内に四体を引き取って大切にお守りし、戦後寛永寺にお返ししました。
現在この四体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。
上野東照宮
銅燈籠(どうとうろう)
台東区上野公園9番
東照宮社殿唐門前と参道に50基の銅灯籠が並んでいる。
灯籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。
照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。
燈籠は上部から、宝珠(ほうじゅ)・笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・竿(さお)・基壇で構成されている。
火袋は、発覚・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口、円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、
ここに銘文を刻むことが多い。
これらの銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現(とうしょうだいごんげん)霊前に奉納したもの。
竿の部分には寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日などが刻字されている。
それによると、伊勢国(現三重県)津幡藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基を始め、慶安4年(1651)正月17日貢献二基、同年4月17日奉献四十五基、同5年孟夏(しょうか)17日奉献二基となっている。
慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日、その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿と共に一括して、国の重要文化財に指定されている。
平成8年7月
台東区教育委員会
上野東照宮HP https://www.uenotoshogu.com/
松平東照宮 https://okazin86.com/matsudairatousyougu/