徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城と隣松寺にある父と祖父の墓。@豊田市

榊原康政の生まれ育った上野城
榊原康政の生まれ育った上野城
榊原康政の生まれ育った上野城

徳川四天王、榊原康政の生まれ育った上野城は、豊田市の山々を望む小高い丘にあります。

また、父と祖父の墓は、目と鼻の先の隣松寺にあります。

見渡す限りの水田と寺に囲まれた上野城で1548年生まれた榊原康政は、

徳川家康の家臣の中でも、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑の一人と呼ばれるまでの武将になりました。

そして、主君の徳川家康を支えて、織田信長や豊臣秀吉との戦いにおいて大活躍しました。

主君の徳川家康が関東移封されたときに群馬の館林に移っています。

主君の徳川家康が豊臣秀吉によって関東移封されたときに、主君家康に付き従い、

館林藩(群馬県館林市)の初代藩主となりましたが、慶長19年(1614年)に66歳で亡くなっています。

大阪や、三重、愛知の方は「榊原」と言えば、榊原温泉を思い浮かべることもあると思いますが、

まさにその通りで、榊原氏は三重県津市榊原町の出身でした。

榊原康政の生まれ育った上野城

上野城址(上野上村城址)

応仁の頃(1467)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光による築城と伝えられている。

城の周囲には、自然地形を利用した堀が巡り、南西に本丸、北東に二之丸が配されている。

宗光は文明7年(1475)に二男の家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となった。

その後家光も程なくして田原に移っている。

明応2年(1493)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母(ころも)の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏等と連合して松平親忠と井田野(岡崎市)に戦い、破れて、松平氏に服属した。

その後この城には松平内膳正信定と、その子清定が在城した。

清定は天文14年(1545)松平広忠と戦い、同15年に降伏して桜井(安城市)に蟄居の身となり、代わって、酒井将監忠尚が入城する。

しかし、永禄6年(1563)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に味方したため、隣松寺に本陣を敷いた徳川家康によって攻められることになる。

永禄8年、一揆が鎮まって忠尚は駿河に逃れ、上野城は落城した。

落城後は家康により、上野七人衆と呼ばれる在番衆が置かれた。

豊田市教育委員会

上野城跡にある説明板のとおり、榊原康政が生まれた上野城は、

当時、三河一向一揆の時に家康に敵対した酒井将監忠尚の城でした。

敵対していた酒井将監忠尚の城で生まれ育った榊原康政が、

どういった経緯で家康の家臣になったのかを疑問に思ってしまうのですが、

ただ、その頃家康は、自分の家臣団を作るために有能な若い者を推挙してもらいたいと、

常々、三河の有力者に声を掛けていたようです。

酒井将監忠尚が榊原康政を家康に推挙したらしい。

そういったこともあり、家康と敵対する以前の酒井将監忠尚が

榊原康政を家康に推挙したと考えられます。

しかし本当のところ、史実がどうなのかはわかりません。

しかし、酒井氏一族としての酒井忠尚と家康はもともと交流があったわけですから、

きっとそのようなこともあったと考えられます。

その場面を描いた小説があったので、ここでご紹介致します。

「徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち 川村真一著」の中に酒井将監忠尚が榊原康政を家康に推挙するシーンがあります。

酒井忠次の叔父、酒井将監忠尚が榊原康政を家康に引き合わせる場面です。

それは、ちょうど映画を見ているように目の前に映像が浮かんでくるようにうまく表現されています。

若い家康が桶狭間の合戦に向かう途中でのこととして描かれています。

しかし、それからしばらくして、酒井将監は家康が岡崎に戻ってから間もなくして起こった、

三河一向一揆の領国の乱れのさなかに、酒井将監忠尚は家康を裏切り上野城に立てこもりました。

酒井将監忠尚は三河一向一揆で家康に協力しませんでした。

酒井将監忠尚に裏切られた家康は、三河一向一揆の総仕上げとして、

彼の居城である上野城を攻めます。

榊原康政は家康の上野城攻めに加わっているので、

自分が生まれ育った城と前の主君を攻めることになりました。

榊原康政の生まれ育った上野城
東から見た上野城
榊原康政の生まれ育った上野城
上野城本丸

酒井将監の上野城を攻めたときに家康は、

この上野城から北東に800メートルほどの隣松寺に本陣を構えています。

この様子を見て、自分には勝ち目がないと悟った酒井将監は、

居城の上野城を逃れ、行方をくらませてしまいます。

その後二度と歴史の表舞台には上がりませんでした。

鴛鴨松平氏墓所

隣松寺の鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ)の墓所の隣に、榊原康政の祖父清長と父長政の墓所があります。

榊原清長・長政の墓所

鴛鴨松平家と姻戚関係にある榊原家の墓所には、

榊原康政の祖父清長と父長政が眠っています。

その榊原康政の祖父清長と父長政の墓所に立てられている卒塔婆には、

榊原家17代当主の榊原政信氏のお名前があります。

よく手入れされている様子から、榊原家当主の方が現在もご先祖の墓を守っていらっしゃることがわかります。

また、この墓所のある所は、今は隣松寺の境内ではなのですが、

当時は広大な寺の境内であったのだろうと思います。

榊原清長、長政の墓所

榊原清長・長政の墓所

榊原清長、長政は、幼少より徳川家康に仕え、四天王の名を欲しいままにした館林城主榊原康政の祖父と父にあたる。

榊原氏は、もともと仁木氏の流れであったが、伊勢の国一志郡榊原村に住し、榊原姓を称した。

清長の代に三河に移り、上野(上郷町)下村に城を築き、松平親忠の臣となり、仕えた。

明応2年(1493)井田野(岡崎市)の戦いでは、12歳の長政が父と共に活躍したことが記録に残っている。

また長政の妻は、鴛鴨城主松平親康の娘であるが、清長、長政共に生年は不詳。

清長は天文14年(1545)10月8日死去、(一説に天文元年9月10日ともいう。)法名は一公羽金忠大居士。

長政は永禄5年(1562)10月19日死去、(一説に9月8日ともいう。)法名は賢孝道誓大居士。

その妻共々隣松寺を菩提所とした。

豊田市教育委員会

榊原康政が生まれ育った上野城からの眺め
榊原康政の生まれ育った上野城からの北東の眺め、榊原康正はこの景色を見て育った。
榊原清長、長政の墓所のある隣松寺
中央が家康が陣を敷いた隣松寺

ツーリズムとよた https://www.tourismtoyota.jp/spots/detail/2175/

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