松平広忠の廟所松應寺に8歳の竹千代(家康)は松の木を植えた。
その松は東に向かって枝を伸ばした。
徳川家康公 父君
松平広忠公御廟所(岡崎市指定文化財)
この御廟所は、家康公が父君供養のために創った
国内有数の格式と規模を誇る霊廟で、文化財の
指定区域だけでも約四百畳の広さがあります。
広忠公は天文18年(1549年)三月、岡崎城で
暗殺され、亡骸はこの地に埋葬されました。
家康公は当時八歳、人質として尾張にいましたが、
同年十一月に参詣し、墓上に一株の小松を植え、
この松に松平家の繁栄を願い託しました。
永禄三年(1560年)、桶は鮫の戦の後、岡崎に
帰った家康公は城主となり、父君に供養のため寺を創建。
手植えの松が緑深く東方に立派に伸長したのを見て。
「我が祈念に應ずる松なり」として、「松應寺」と
名付けました。
江戸幕府を開いた家康公は、慶長十年(1605年)、
広忠公五十七回忌にあたり、本堂の造営などと共に
御廟所の本格的な整備や修復を行いました。
家康公をはじめ秀忠公・家光公などの歴代将軍が参詣し、
各将軍が御廟所の整備に力を入れました。
江戸時代以来の大規模な修復を、令和元年より
三年かけて行い現在の姿になります。
松平広忠の廟所松應寺に8歳の竹千代(家康)は松の木を植えた。
その広忠公の墓所はお参りする位置が中心から少し西側に寄っています。
そのことに違和感を感じたので、お墓の前で考えていました。
それはきっと広忠公は西を頭にして眠っているからなのではないかと思ったのです。
そのように考えると、お墓の前で感じた違和感がスッとなくなって腑に落ちました。
あらためてそのように思いながら手を合わせると、横になっている広忠公の傍に自然な感じで近侍させてもらっって、何か言葉をかけてもらっているような気持ちになります。
本当のところは当時の方か、松應寺のご住職に尋ねないとわかりません。
無理にその理由をこじつけるとなると、西方浄土だから!。
そう思ったのですが、その答えもいい加減な思いつきですが気になるところです。
何度か足を運ぶうちにわかるような気がするので、ときどきお参りにお参りに来ることにします。
松應寺の梵鐘
この梵鐘は、寛永十二年(一六三五年)、
家康公の九男で尾張徳川家の氏祖・義直公が
鋳造・寄進したもので、銘は江戸時代の有名な
儒学者林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造のため、
供出が強制されました、この梵鐘は
文化的な価値が高いとして、供出を免れました。
しかし、昭和二十年(一九四五年)、
米軍の空襲で、梵鐘も戦火に包まれましたが、
幸い破砕はしませんでした。
鐘撞き堂は、昭和五十五年年(一九八〇年)に
再建され、今も鐘の音を響かせてくれています。
終戦記念日などの平和の鐘や、除夜の鐘は、
一般の方々も撞くことができます。