平手政秀の墓所を訪ねて──信長が悼んだ忠臣の記憶、政秀寺と名古屋市平和公園

平手政秀の墓所を訪ねて──信長が悼んだ忠臣の記憶、政秀寺と名古屋市平和公園

名古屋市千種区・平和公園の高台に、織田信秀(信長の父)の家老兼信長の守役だった平手政秀の墓所があります。

かつて平手政秀の墓所は、政秀の菩提を弔うために織田信長が建立した「政秀寺」にありましたが、現在は、名古屋市中区にある政秀寺の寺霊地として名古屋市千種区の平和公園の高台に移っています。

しかし、寺は昔のまま名古屋市中区の栄にあります。

寺と墓所が離れていることを不思議に感じられる方もいらっしゃると思うので、政秀寺にあった墓地が平和公園に引っ越してきた理由を書いておきます。

昭和22年(1947年)、名古屋市は「戦災復興土地区画整理事業」の一環として、墓地の集約を決定しました。

約18ヘクタール、189,030基の墓碑を名古屋市東部の丘陵地に移転する計画が始まるとともに、新しい墓地エリアとして「平和公園」が整備され、宗派ごとに区画分けされた集合墓地となりました。

各寺院が独立して管理する形で、政秀寺を含む多くの寺院が墓地を移転しています。

墓石が真ん中で割れているのは、名古屋空襲により政秀寺が被災したときに割れてしまったのではないかと思いながら手を合わせて参りました。

平手政秀は、織田信長の守役

平手政秀は、織田信長の守役──いわゆる「爺(じい)」として、織田信秀(信長の父)から命を受けました。

そして、信長の幼少期から彼を支え続けました。平手政秀は彼の良き理解者でもありました。

岐阜の斎藤道三の一人娘・濃(のう)と信長の婚儀をまとめたのも政秀でした。

信長の奇行に悩みながらも、その才覚を信じ、教育者としても尽力したようです。

しかし、信長の振る舞いが家中に不安を招くようになると、政秀は自らの命をもって諫める「諫死」を選びました。1553年、その壮絶な忠義は、後世に語り継がれることとなります。

この政秀の死を深く悼んだ信長は、同年政秀寺を建立してそのかけがえのない恩に報います。

建立当初、小牧にあった寺は、その後、時代の流れの中で移転を重ねましたが、現在は先にも述べたとおり名古屋市中区の栄にあります。

一方、墓所は千種区の平和公園内の高台に移され、見晴らしのよい静かな環境の中で政秀は眠っています。

政秀寺 - 公式ホームページ
政秀寺は愛知県名古屋市にある臨済宗妙心寺派の寺院。織田信長が平手政秀の菩提を弔う為に建立した寺です。

📸 以下は、現地で撮影した平手政秀の墓所の写真です。歴史に思いを馳せるひとときを、ぜひこの静かな場所で体感してみてください。

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