
静謐な歴史の入り口


名古屋市中村区。豊臣兄弟を祀る豊国神社のすぐ隣に、もう一人の英雄・加藤清正の生誕地とされる「妙行寺」があります。その門前に立つと、開かれたその門の奥から、清正公が「ようござった」と尾張弁で招き入れてくれているような、不思議な気配を感じます。ここはお寺という存在を越えて、名古屋城築城という大事業の歴史の記憶とともに、今も清正公の息づかいを現代に伝える聖域です。
名古屋城築城の記憶を留める「余材」での建築





妙行寺の縁起を紐解くと、慶長15年(1610年)、家康公の命による名古屋城築城の折、清正公がその余材と普請小屋を譲り受け、自身の生誕地であるこの場所へ消失していた「本行寺」を移築再建したのが始まりとされています。築城という国家事業の傍らで、先祖と両親の菩提をとむらい、生まれ育ったこの地に心の拠所を据え直したのではないでしょうか。境内を流れる風のなかに清正公の思いが感じられたようで清々しい気分になります。
智勇の猛将、加藤清正公のその足跡を辿る






永禄5年(1562年)、ここ中村で生まれた清正は、秀吉の母と清正の母とが従姉妹どうしであったという血縁から、わずか9歳でその旗下に入りました。天正3年(1575)14才のときに、長篠の戦いに初陣、その翌年に元服し、名を夜叉丸から虎之助清正と改め170石を与えられています。
天正10年(1582)秀吉は備中国冠山城を攻めましたが、そのとき清正はこの戦の先陣大将として出陣、馬印に日頃から信仰していた日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」の七文字を書いた旗を立てました。そして同年に本能寺の変が起き、兵をかえした秀吉とともに山崎で戦い明智の軍を破っています。
天正16年(1588)肥後に封じられていた佐々成政が秀吉の怒りに触れ切腹させられたあと、その領地が清正に与えられました。清正27才のときでした。家臣300人で25万石の領主となったわけです。
豊臣に代わり徳川の世となりつつある慶長15年(1610)、家康の名古屋城築城にあたりその石垣工事を見事に完成させた後、翌16年には二条城における秀頼、家康の会見においては、秀頼の後見という大役を果たしました。
その後清正公はしばらく大阪に滞在し、海路肥後に帰国しましたが、船中で発病し熊本城で高熱のうちに世を去りました。
慶長16年(1611)6月24日、享年50才でした。
生涯、清正の心の支えとなったのは、信仰であったといいます。馬印に「南無妙法蓮華経」の七文字を掲げ、幾多の戦いのその死線を乗り越えて遠く熊本の地にあった武将の魂は、生誕地の中村に戻り、懐かしい両親や先祖と共に鎮まっています。
三つの清正公の像が語る、わずかな意匠のちがい



中村公園の西側に位置する「秀吉清正記念館」には、彫刻家・高藤鎮夫氏の手による清正公像のひな形が展示されています。このひな形から、各地に清正公像が建立されましたが、ここ妙行寺の像の前に立って仰ぎ見ると、何かそこに強い「意志」があるかのような違いに気づかされます。
- 妙行寺の等身大像: 熊本城や名古屋城の像とは異なり、采配を握る右手の位置が低く、その佇まいには猛将としての威圧感よりも、故郷を見守る慈父のような穏やかさが漂います。
- 兜の前立ての有無: 名古屋城の清正像に見られる「南無妙法蓮華経」の兜の丸い前立てが、妙行寺の清正像にも見られるのに、熊本城の像には見当たりません。
- 耳のように見える兜の吹き返しの有無:ひな形のブロンズ像には見られますが、名古屋城や妙行寺の清正像にはなく、熊本城の清正像にはひな形と同じく兜に吹き返しがあります。


携えていったカメラ D500のファインダー越しにその表情を追うと、像ごとに異なるわずかな違いは、清正公がその時その場所で果たした役割の違いを表現しているのかも知れません。
【結び】
豊国神社で秀吉・秀長兄弟の絆に触れた後、この妙行寺を訪れている時間は、中村という地が育んだ英雄たちの物語を完結させてくれるかのようです。
2026年の大河ドラマが始まった今、その物語の奥にあるドラマには描かれない「武将の心の真実」を探しに、この静かな境内を訪れてみてはいかがでしょうか。そこには、ここに来た人だけが感じられる、鋭くも温かな清正公の眼差しが待っています。
場所:名古屋市中村区中村町字木下屋敷22
HP:https://www.myougyouji.jp/ 御朱印は奥の庫裡でお願いできます。
