
織田信長の家老といわれる猛将、柴田勝家(1530-1583)の生誕の地は、
名古屋市名東区の下社城(しもやしろじょう)です。
(生年には1522など諸説あるようです)
現在は真宗高田派の明徳寺となっていて、たぶんこの丘全体が城だったと、
想像できます。
現在は、その城跡に明徳寺が立っています。
辺りを見渡せる高いところにあるので、城としては絶好の立地です。
明徳寺には、下社城跡の碑が立っています



寺の階段の上の、辺りを見晴らせる場所には、下社城跡の碑が建てられています。
また、階段を挟んで西側には、柴田勝家公誕生の地の石碑が建てられています。

柴田勝家出生地
勝家は享禄三年(1530)この地でうまれたといわれる。
幼名を権六といい、織田信長の重臣で、勇猛な武将であった。
主君汚名で近江長興寺城を守っていたとき、佐々木承禎(じょうてい)に
城を攻められ、籠城に備えた飲料用の「水がめ」を割り士気を鼓舞して大勝を得た、
「かめ割り柴田」の逸話は、人々によく知られているところである。
ここ明徳寺は正吨山と号し、真宗高田派の寺院である。
名古屋市教育委員会
下社城址の周囲には勝家坂という坂の名前が付けられています。


織田信長が信頼を置いた勝家でしたが、信長が亡くなって以降、
藤吉郎とそりが合わず、戦いに敗れて妻のお市の方と共に自害してしまいます。
髭モジャの男と、絶世の美女と世に知れた信長の妹、お市の方の縁を取り持ったのは、
皮肉にも木下藤吉郎だったそうです。
勝家はこのお城の若様として育てられたので、
きっと人の気持ちをよく理解できる優しさを秘めていた男だったのでしょう。
