浅野内匠頭長矩公(あさのたくみのかみながのり)の墓所、泉岳寺(東京都港区)と、吉良上野介義央公(きらこうずけのすけよしひさ)の墓所、華蔵寺(けぞうじ)(愛知県西尾市)に行った。
少しだけこじ付けっぽいことはわかっているのですが、二人に共通することを三つ見つけました。
1.お墓のある二つの寺の山門下の標高、海抜が4.9m。
2.身内の女性の名前がアグリ 浅野内匠頭の正室が阿久利、吉良上野介の娘がアグリ子で、二人の女性がともにアグリです。
3.領地の産業 塩の製造(塩田)。
ひとつめは二人の墓がある泉岳寺と華蔵寺の二つの寺の山門下あたりの海抜が4.9mで同じであることです。華蔵寺の方には標高と書いてありますがまあ同じです。
一番目の海抜ですが、これは表示されている数字が同じだというだけのものですが、何か妙に結び付けて考えてしまいたくなります。
都営浅草線の地下鉄の階段を上がったとこにある海抜の表記が4.9m。
華蔵寺の山門下にある駐車場にも標高4.9mの表記があります。
海抜と標高で少し意味は違うようですが、ここでは同じだと考えて差し支えないでしょう。
ただ、それぞれの寺にある浅野内匠頭と吉良上野介の墓所はいずれも寺の中の高台の一番高いところに建っています。
吉良家の菩提寺は東京中野区の万昌院ですが、吉良家の領地がある愛知県西尾市吉良町には吉良家菩提寺の華蔵寺があります。
ここでは華蔵寺と泉岳寺のことを書いています。
浅野内匠頭の正室は夫の死後、瑤泉院(ようぜんいん)となりましたが、もとの名は阿久利(あぐり)といいました。
一方の吉良上野介の娘の名前もアグリ子でアグリです。
吉良家の墓所にお墓があるのですが、なにか不思議な縁があるのかもしれません。
赤穂藩浅野家は5万石の大名ですが、塩田経営により実高は7万石とも噂されていました。
一方の吉良家は足利氏なので名門です。
三番目の共通点は、それぞれの領地では塩の製造(塩田)が盛んだったということです。
しかし名門高家肝煎(こうけきもいり)とはいえ赤穂藩浅野家の1/10の経済力でした。
江戸の時代には、三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石です。(ウィキペディア)
ただ、どちらの領地も海に面している豊かな土地柄です。
吉良家も浅野家と同じく塩田による塩の生産により実質はもっと収入は高かったものと思います。
吉良町には赤馬に乗って領地を見回る上野介義央の像がいくつか建てられています。
片岡山 華蔵寺 臨時宗 妙心寺派
華蔵寺は吉良上野介義央公の曽祖父、義定公が吉良家を再興した際、新たに高家吉良家の菩提寺として江戸時代初期に創建された。
吉良家は、鎌倉時代に足利氏が三河守護・吉良荘地頭を務め、この地に居住したことに由来する。室町時代には足利将軍家の一族として幕政の中枢で活躍した。・・・・。
赤穂藩浅野家のこと
https://akoinfo.com/akogisi/asanotosiro/asanoke.html
高家、吉良家のこと