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尾張名所図会に載る一之御前社の安産水には後奈良天皇につながる興味深いエピソードがある。@豊明市

尾張名所図会の二村山、十三塚、鎌倉古道、子安清水のページがあります。

右上に描かれている子安清水が、この写真の一之御前神社の安産水です。

この安産水は後奈良天皇につながる興味深いエピソードを秘めています。

一之御前社(いちのおんまえしゃ)の由緒書に

「1651年に近くの住吉社から神功皇后一座の後分霊をうけ現在地に奉祀す。」

とあります。

1651年は、ちょうど江戸の大事件、由井正雪が、

江戸に火を放って江戸城を乗っ取ることを企てた「慶安の変」が

あった年になります。

そのように一之御前社は、比較的新しい神社です。

しかし、この神社には安産水と呼ばれる湧水とともに

後奈良天皇につながるエピソードがありました。

一之御前安産水説明

市指定史跡

一之御前安産水(いちのおんまえじんじゃあんざんすい)

この泉は沓掛城主の娘(「豊明村誌」では「三河某城主の娘」)が、

後奈良天皇(1526~1555)の

寵愛を受けて懐妊し、故郷へ帰る途中この清水で喉の渇きをいやし、安産することが出来たという言い伝えがあります。

豊明市教育委員会

後奈良天皇(1497~1557)の時代と符合します。

尾張名所図会 1840年頃の一之御前子安清水(安産水)辺りの風景
一之御前安産水説明

豊明市史跡指定

一之御前安産水

沓掛城主 八代目近藤伊景(こんどうただかげ)の子女が後奈良天皇の側女としてつかえ

お産のため郷里明知へ里帰りをする途中 この地で清水の湧き出ているのを見てこれを飲み

無事にお産をした。この水を安産水と名づける。

以後一之御前神社の氏子には難産はないといわれている。

一之御前社社号標
安産水と後奈良天皇のことがわかる一之御前社由緒

下高根・小所

一之御前社

豊明市沓掛町一之御前十三番地

祭神 神功皇后 天照大御神

由緒

社伝によれば慶安四年「1651」江戸時代初期字上高根鎮座の

住吉神社より神功皇后一座の御分霊をうけ、字下高根の氏神として現在地に奉祀す。

明治40年までさ入れに祭祀、上高根、下高根の字にて祭車が往復する。

境内地入口に「二方二間四方」の土塀ありその中央の石櫃に正徳2年「1529」と記され

内より冷泉湧き出たるは、安産水なり、その由来は、沓掛城主近藤宗光より八代目近藤伊景は

明知に住していたが、その子某女は後奈良天皇の側女として妊むことあり、郷里明知に帰る途中

菩提寺裕福寺(祐福寺?)に参詣しようとして、その途次この清水の湧き出ているのをみてこれを飲み渇きを

医したところ安産することができたと、今につたえられ遠近より産婦の参詣が多く子供の神様として崇敬篤い。

明治42年1月小所字下八尻の氏神である神明社(創祀元禄9年「1697」5月)を諸事情により合祀し現在に至る。

明治44年12月指定村社となり、昭和21年11月宗教法人となる。

安産水と後奈良天皇に関係する一之御前社拝殿

生まれた後奈良天皇の子はどうなったのだろう。

後奈良天皇と沓掛城主の娘との間に生まれた天皇の血を引く子は

その後どうなったのだろう。

男子か、女子か?。

何といっても天皇の血筋ですから、

近藤伊景(もとかげ)は大喜びしたに違いありません。

でも、そのようにして娘を天皇のちかくに送り込めたのでしょう。

普通に考えると、田舎の小領主が朝廷に直接願い立てるすべなどありません。

朝廷の財政状態が厳しい時代だったので

相応の金品を献上するなどの貢献なしには叶うはずがありません。

しかし、後奈良天皇はそういったことを好まない清廉な御気性と伝わっています。

今川義元は1560年に桶狭間の戦いで信長に討たれる前日に沓掛城に入っています。

今川義元の上洛を狙ったタイミングは、困窮する朝廷への財政支援と

自分への将軍推挙を狙った思惑と利害が重なるタイミングではなかったかと思えます。

そのような時代背景からすると、後奈良天皇の子が

今川義元の家来のもとにいるということは、今川義元が

天皇に拝謁するに当ってこの上ない状態と言えます。

そして何といっても、後奈良天皇の子の正親町天皇の兄妹?兄弟にあたるのです。

後奈良天皇の子を懐妊して里帰りした娘の実家の菩提寺が祐福寺です。

祐福寺は、一之御前神社から北東に2.5㎞にあります。

開創1191年、創建1388年の格式のある寺です。

後奈良天皇の子を懐妊して里帰りした娘の実家の菩提寺が祐福寺で

後奈良天皇が勅使を差し向けるほどの関係のある寺です。

父親の近藤伊景は、祐福寺を通じて京都の公卿に娘の教育を願い、

その上で宮中に上がるという手順が

とたれたのだろうと想像します。

そのようにして後奈良天皇の側に娘を送り込むことが叶ったのでしょう。

また、祐福寺は朝廷からの勅使(ちょくし)を迎える格式をもち、

寺には菊の紋のある勅使門があります。

後奈良天皇の子がお腹に宿している身で祐福寺に菩提寺の祐福寺に立ち寄るというのも、

彼女が天皇からのなにがしかのメッセージを携えていたとも考えられます。

なお近藤伊景の屋敷のある明知は「みょうち」と読み、みよし市の南部にあります。

ブドウ畑や梨畑の多い丘陵地帯です。

祐福寺は尾張国の東端にあります。

また明知は三好市なので三河国になります。

安産水と後奈良天皇に関係する祐福寺勅使門

祐福寺勅使門

勅使門(ちょくしもん)

大永八年(1528年)5月、第九世空織果厳(くうしきかごん)大和尚

のとき、後奈良天皇御満願満足のために官寺にされ、その綸旨(りんし)を賜り、

勅使左中将経広卿(さちゅうじょうつねひろきょう)を遣わされた時に造営されたもので、

柿葺き(こけらぶき)一間一戸の中門をなし、朱塗りの屛に十六菊花の御紋章が鮮やかで

勅願寺にふさわしい。

そのご修理が繰り返されたとおもわれるが、天保十五年(1844年)奉修の棟札が現存している。

平成二年二月四日 勅使門 愛知県指定有形文化財

平成三年四月一日 脇門及び筋塀 東郷町教育委員会

祐福寺の土塀は、最高格式の5本の筋塀であり、

皇室に関係する由緒の寺であることを表しています。

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