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写真 寺社仏閣

桶狭間の戦いの前日に今川義元は沓掛城に入るのですが、沓掛城に入る前に祐福寺に立ち寄っているようです。

桶狭間の戦いの前日に今川義元は沓掛城に入るのですが、どうも沓掛城に入る前に祐福寺に立ち寄っているようです。

祐福寺は三河と尾張を分ける国境の境川の近く、岡崎街道(岡崎方面からは平針街道と呼ぶ)にあります。

現在の愛知県愛知郡東郷町にあります。

祐福寺の勅使門(ちょくしもん)をご覧になって分かる通り、天皇の使いがやってくるほどの格式の高い寺です。

許された5本の筋塀が天皇と深い関係のある寺であることを示しています。

桶狭間の戦い前日に、今川義元は25,000人の大軍を率いて池鯉鮒(知立)を出立して沓掛城に入ったといわれていますが、ここ祐福寺に入ったことは、この立て札を読むまで全く知りませんでした。

永禄3年5月18日は今川義元が桶狭間で信長に討たれる前日

隊列の長さを考えてみると、仮に1メートル間隔で3列の隊列を組んで進んでいる兵の先頭が祐福寺に着いた頃、兵の最後尾はまだ池鯉鮒で行軍待ちの状態にあります。

全長が8㎞の隊列になります。

私の想像では、今川義元がこの寺で中食(ちゅうじき)、昼食を摂るためにわざわざ祐福寺まで足を延ばして一時駐屯したのだろうと思っています。

境内の立て札に今川義元公本陣跡とあるのはそのときの御座だろうと思います。

池鯉鮒(知立)から祐福寺に来るためには、手前の沓掛城と通り過ぎなくてはなりません。

鯉鮒(知立)から祐福寺に来るためには、手前の沓掛城を通り過ぎなくてはなりません。

隊列の長さを考えると、先頭の今川義元の兵は祐福寺の周りで待機したとしても、それ以外の後方の兵は道が詰まって先には進めず足踏み状態になってしまいます。

それを解決するためには後ろ半分の兵を先に沓掛城の周りに布陣させて、大将の今川義元の帰りを待たせたのでしょう。

それが考えやすいので、ここではそうしておきます。

中食(昼食)を摂るのは沓掛城に入ってからでもよかったはずですが、わざわざ沓掛城の先にある祐福寺まで行ったのには何か訳がありそうです。

その前に軍勢の行軍の長さを考えておきましょう。

今川の軍勢の行軍と距離の感覚

勅使門の向こう側の参道は今川義元が来た知立の方向に延びている

今川の軍勢の行軍と距離の感覚を申し上げると、

池鯉鮒神社から沓掛城までは直線で6.4㎞ 

池鯉鮒神社から祐福寺までは7.8㎞

です。

知立から祐福寺までは、およそ2時間ほどで到着します。

祐福寺から沓掛城までが2.6㎞です。

普通に行軍すれば30数分で到着しますから、さほどの距離ではありません。

池鯉鮒を朝9時に出立すると11時には裕福寺に到着できることになります。

ちょうどお昼時になります。

今川義元には祐福寺に立ち寄りたかった訳があった。

今川義元が裕福寺に立ち寄りたかった理由と考えられることが寺の由緒書の中に書いてありました。

永享四年九月(1432年)に6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が、ここ祐福寺で歌を詠んでいることを今川義元が知っていたのだろうと思うのです。

高い教養を持つと伝わる今川義元ですから、今川氏と血のつながりのある第6代将軍の足利義教が滞在し歌を詠んだ祐福寺に折があれば行ってみたいと願う気持ちをずっと抱いていたのでしょう。

多分そうではないかと思います。

今川義元の情緒豊かな一面が感じられます。

ここに3、4時間ほど滞在した後、沓掛城に向かったのではないでしょうか。

祐福寺から直線で2.6㎞ほどの距離なのでまだ日が高いうちに到着できたはずです。

今川義元も、きっと一首歌を詠んだのだろうと思うのですが・・・・。

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