源頼朝は二村山を越え京に登った。
そして右近衛大将に任じられます。
1190年のことです。
源頼朝はそのときに二村山で歌を詠んでいます。
彼は、京まで進む街道の景色のなかで、二村山から見た尾張景色に感動したしたのではないでしょうか。
頼朝公の心の中では、父のこと、母のこと、そして父の仇のことなどが一度に巡ったのだと思います。
頼朝公の母の実家は熱田神宮です。そして父義朝公は尾張国知多郡で亡くなっています。
頼朝公の母の実家は熱田神宮です。
そして父義朝公は尾張国知多郡で亡くなっています。
お母さん(由良御前)は里帰り出産するために京都から名古屋に戻り頼朝を生みます。
そういう経緯があるので、頼朝公は名古屋生まれの鎌倉育ちです。
今風に言い換えると名古屋生まれの湘南ボーイです。
でも幼少の頃は義朝公とともに京都の上流社会の中で育っていました。
しかし平治の乱(1160)で父の源義朝公が平清盛に敗れ、東国に敗走する途中で頼朝公父とはぐれてしまいます。
源義朝公は尾張国知多郡野間まで逃れてきますが、信じて頼った武将に裏切られ命を落としてしまいます。
それから30年後の1190年に父の墓のある野間大坊を訪れます。
そのときに二村山で尾張国を見ながら歌を詠みます。
野間大坊には七堂伽藍を建立し無念の死を遂げた父義朝公の霊を弔います。
そのときに父を裏切った長田忠致(おさだただむね)を討ちます。
このことで頼朝公の長年にわたる胸のつかえがなくなり晴れ晴れとした気持ちで上洛したのだと思います。
源頼朝が二村山を越え京に登った時に詠んだ歌碑と鎌倉街道
よそに見しをさゝが上の白露をたもとにかくる二村の山 源頼朝
源頼朝がこの地を通ったのは、
建久元年(1190)十月、露の季節であった。初めての出京
に歌枕として名高い二村山は印象が深かったと思われる。
珍しく頼朝の詠歌(えいか)として
続古今和歌集に残っている。
この時の上洛で、後白河法皇、
後鳥羽天皇に拝謁して右近衛(うこんえ)
の大将に任ぜられた。
豊明市観光協会 https://welcome-toyoake.jp/
鎌倉街道
平安時代から鎌倉・室町時代を
経て慶長六年(1601)正月 家康が
東海道を制定し 伝馬の精度を
定めるまで 京と鎌倉とを結ぶ
主要幹線であった。
市内(豊明市)の通路
大久伝-宿-二村山-濁池
当時の宿場
八波木(矢作)、八ッ橋、沓懸(沓掛)
鳴海 熱多(熱田)
源頼朝は二村山を越え京に登ったのです。