徳川家康の家臣大久保忠隣(おおくぼただちか)は小田原城主、江戸幕府の老中から失脚した。
その大久保忠隣が幽居した場所が彦根市にあります。
そこは井伊家の菩提寺、彦根龍潭寺(りょうたんじ)の三門前です。
徳川家康の家臣大久保忠隣が老中の失脚、小田原藩を改易されて蟄居した後、
75歳で亡くなるまでの12年間をここで過ごしました。
現在その幽居址には、「大久保忠隣公幽居之趾」の石碑が建てられています。
彦根の龍潭寺門前のこの幽居地に移るまでは現在の草津市に蟄居していた
蟄居が命じられた大久保忠隣が、彦根の龍潭寺門前のこの幽居地に移るまでは、
同じ近江の国、栗太郡中村郷に5000石を与えられて蟄居していました(現在の草津市上笠)。
ちょうど、JR東海道線草津駅から西に2㎞離れたところです。
そこからは琵琶湖越しに比叡山や比良山地を見晴らすことができるので、
現在と変わらぬ美しい風景を眺めながら傷心の日々を過ごしていたのだろうと思います。
また偶然にもそこからは、安土城址が遠望できるので、
忠隣が29歳の若いころに、織田信長から主君家康と共に家臣一同が安土城に招かれて、
晴れがましく饗応を受けたことや、
そのあと、堺の街と港を家臣一同と共に見物したこと、そして、そのときに本能寺の変が勃発したこと
などを思い出していたことと思います。
そして何よりも、大ピンチに陥った忠隣や家康一行が、明智光秀からの追撃や落ち武者狩りから逃れて、
夜を日に継いで命からがら伊賀越えし、三河に帰還したことの思い出などが頭の中で巡っていたことでしょう。
小田原城主、幕府老中大久保忠隣が失脚した理由
小田原城主、幕府老中大久保忠隣が失脚した理由として考えられる資料などを、
箇条書きにしていくと、
1.西国大名と親しかった
2.二代将軍秀忠公がやりにくかった
3.1611年、忠隣が嫡男大久保忠常を病で失う。
4.以後意気消沈し政務を怠った。
5.将軍秀忠の精進落しの宴を断った。
6.大久保長安の不正蓄財事件による信用の失墜
などが考えられます。
そういったことを忠隣の弱みとして、家康や秀忠に進言し、
追い落としを図ったのは、
同じ老中職の本多正信、正純親子による陰謀とも言われています。
事実、忠隣を追い落としたことにより本多父子に権力が集中したことは事実です。
当時は、相当なインパクトのある出来事だったようで、
現代に至るまでそういった陰謀論が伝説となって伝わっています。
忠隣は要職にありながら自分の気持ちを優先して振舞ったのが失脚の原因か
家康は、忠隣が嫡男を失ったことでそこまで動揺し、意気消沈してしまう様子にがっかりしてしまったのではないでしょうか。
そのような精神力の弱さでは、これからの幕府の要職に置いてはおけない器量の持ち主であると、思ったに違いありません。
忠隣が南光坊天海に救いを求めて、自分に不忠があるなどというのは誤解であることを嘆き、不忠の志などのないことを訴えていますが、
忠隣からそのことを聞いて、憐れんだ南光坊天海は、
家康に伝えましたが、そのまま捨て置かれたことが記録に残っています。
一方の、家康自身は嫡男信康を切腹させて失っています。
いかに文武両道の忠隣といえども、家康は彼の予想以上のメンタルの軟弱さに、
幕府を支える老中として持っていてしかるべき精神力に不足を感じてしまったのではないでしょうか。
家康は、忠隣を若いころから買っていただけに、
大いにがっかりさせられてしまったことは間違いありません。
家康は、これまで重用して信頼していた忠隣の姿を見て裏切られたっと思った。
家康にとっては、これまで信頼し重用してきた忠隣の姿を見て裏切られたと感じたことへのショックもあったことでしょう。
そのうえに、大久保忠隣と本多正信を幕府運営のための車の両輪と考えていたにもかかわらず、
忠隣が嫡男を失ってしまったことで、あまりにもみっともない姿を公に晒したこと、
それはあまりにも身勝手な態度ではないかと感じたことは容易に想像がつきます。
そんな忠隣の周りを顧みない態度を、立場をわきまえぬ身勝手な振る舞いと感じた家康には、
病で嫡男を失った忠隣よりも、もっと深い心の傷を負いながらも、それを乗越えてきた経験があります。
家康自身が嫡男を切腹させてしまった過去と、嫡男を病で失った忠隣が見せた不甲斐ない振る舞いを
比較し重ね合わせてみた場合に、どのように考えても、
家康は、幕府の要職にあるものとして、忠隣の精神的な弱さは、幕府を任せることにおいて危機感を覚えたはずです。
これまで、家康自身が苦労して打立てた幕府の今後を託すことを思うと、家康は危機管理上決して許すことが出来なかったのでしょう。
蟄居の場所を栗田郡中村郷から彦根の龍潭寺三門前に移した
大久保忠隣の最初の幽閉地であった近江の国、栗太郡中村郷は、
東海道と中山道が分岐する草津宿の近くにあって、交通の要衝です。
その草津宿は、頻繁に東西大名や重要人物が行き来していますし、
その東海道と中山道が交差する草津宿からは徒歩で30分、
馬で駆けるとたぶん10分ほどの距離しかありません。
諸大名とのつながり、特に西国大名とのつながりを多く持つ忠隣は、
旅の途中、草津宿の本陣に宿泊する大名たちと頻繁に顔を合わせていたこが想像できます。
やがてそれは幕府の耳にも入り警戒されていたと思われます。
それでなくても、蟄居の理由として西国大名と親しく徳川幕府を脅かしかねないということも
噂にあったようなので、なおさら警戒されたのでしょう。
また、忠隣が南光坊天海に将軍家に対して不忠の志のないことを訴えたのは、
手紙というよりも、きっと、京都、駿府、江戸を行き来することの多かった天海と、
草津で会い、身の不実を訴えたのだろうとも考えられます。
そういったこともあり、幕府は井伊直常に指示し、忠隣を草津から彦根に移させたのではないでしょうか。
家康は公卿三条西公条(さんじょうにしきんえだ)の血筋である大久保忠隣を、また名家である井伊家の井伊直政とともに、
各地の大名や有力者との交渉役に用いていたようです。
そういったことから、大久保家と井伊家は多くの大名家と親しく顔が広かったようです。
大久保忠隣の幽居趾のある彦根の龍潭寺前
龍潭寺(りょうたんじ)は井伊家発祥の地、浜松の井伊谷(いいのや)にある井伊家の菩提寺ですが、
関ヶ原の戦いの後、家康の命により井伊直政が西国からの守りとして彦根に移った折りに、
井伊谷の龍潭寺を分寺して彦根にも龍潭寺を建立しています。
ただ、井伊家の菩提寺である龍潭寺はそのままに、井伊直孝が隣接している高名な武将、島左近の屋敷跡に建立した清涼寺が
井伊家が彦根に移ってからの菩提寺となっています。
井伊直政は高崎から彦根に入って亡くなるまで、佐和山城が居城だった。
井伊直政が関ヶ原の戦いの後、彦根に入ってから亡くなるまでの2年間は、
石田三成の居城だった佐和山城で過ごしました。
その後、1602年に直政が亡くなってからすぐに、佐和山城を破却した部材や
石を利用して彦根城を築いています。
佐和山城の麓にある龍潭寺は城の登城口を守る位置に建てられています。
佐和山城の麓にある龍潭寺は城の登城口を守る位置に建てられています。
それを考え合わせると、龍潭寺は、佐和山城への登城口を守る砦の役目を担っていたことになります。
それは、浜松の井伊谷の龍潭寺にもいえることで、
井伊家の居城を守る位置に建てることで、戦のときには砦の役目を果たすように配置されています。
龍潭寺山門前の大久保忠隣公幽居趾



龍潭寺拝観入口を入ってすぐの雑木林が大久保忠隣公の幽居址です。
そこには、いきなり前の佐和山城主だった石田三成の銅像があります。
当時は龍潭寺の敷地が広かったはずなので、三門前の南北に今以上の広さがあったのではないでしょうか。
また、写真のような木々はなく、ここには幽居の屋敷や庭があったのでしょう。
そこでは、畑を作って野菜などの農作物を作ったり、茶室で井伊公にお茶を振舞ったりしていたのかも知れません。
ここで幽居している忠隣は、家康の家来として浜松にもいたことがあるので、
井伊家の発祥の地である、井伊谷の龍潭寺のことをよく知っていたことと思います。
その浜松に比べると、若狭からの風が吹き込む彦根の気候には冬の厳しさがありますが、
この彦根の龍潭寺でも小堀遠州の庭を見ながら、住職とあれこれ語って過ごしていたことでしょう。
1616年、主君の徳川家康が亡くなったと同時に出家して道白と号した。63歳
家康が亡くなると同時に剃髪することで、自分が徳川家康の家臣大久保忠隣であることと、
その忠節に嘘がないことを示し、ここで余生を送りました。
徳川家康の家臣大久保忠隣のプロフィール
大久保忠隣(1553-1628) 治部少輔 相模守 従五位下
主君 徳川家康、徳川秀忠。家康没後すぐに剃髪 道白と称する。
父 大久保忠世 母 近藤幸正の女(むすめ)
忠隣の祖母(父、大久保忠世の母)は公卿の三条西公条(さんじょうにしきんえだ)正二位右大臣の女(むすめ)
墓所 京都上京区本禅寺(ほんぜんじ)(大久保家菩提寺) 法号 涼池院殿道白
小田原市の大久寺
徳川家康の家臣大久保忠隣年表
年齢と西暦
1 1553 現在の愛知県岡崎市上和田町 生まれ
10 1563 三河一向一揆
15 1568 初陣遠州堀川城攻め
17 1570 姉川の戦い
19 1572 三方ヶ原の戦い 奉行職として既に徳川政権の中枢にいた
29 1582 本能寺の変、家康とともに伊賀越
33 1586 家康上洛に従う 従五位下治部少輔
37 1590 小田原征伐
37 1590 家康関東入国時 武蔵国羽生2万石拝領
40 1593 秀忠付け家老
41 1594 父、大久保忠世死去 相模国小田原65,000石領主 その後、小田原藩主となる
47 1600 東軍の秀忠に従った。上田合戦を主張し本多正信と対立。
52 1605 徳川秀忠公二代将軍職に就く
57 1610 老中就任
58 1611 嫡男 大久保忠常死去 以降意気消沈し精彩を欠き政務が疎かになる
61 1614 1月京都の藤堂高虎の屋敷で改易の沙汰を受ける
63 1616 近江の国栗太郡中村で3年を過ごし彦根に移る
63 1616 家康の死後出家し道白と称する。
75 1628 死去75歳
徳川家康の家臣大久保忠隣に関係する人たち
大久保忠隣(1553-1628)小田原城主 老中 本人
大久保忠世(1532-1594) 小田原城主 父
大久保忠員(おおくぼだだかず)(1511-1583) 祖父
大久保忠教(1560-1639)大久保彦左衛門 大久保忠世の弟 忠隣の叔父 旗本
三条西公条(さんじょうにしきんえだ)正二位右大臣 (1487-1563)忠隣の曾祖父
本多正信(1538-1616)老中 政敵
本多正純(1565-1637)老中 本多正信嫡男 政敵
徳川家康(1543-1616)主君 将軍
徳川秀忠(1579-1632)二代将軍
松平清康 (1511-1535) 家康の祖父 忠隣の祖父忠員の主君
松平広忠(1526-1549) 徳川家康の父 忠隣の祖父忠員の主君
松平長親(1455-1544)従五位下、蔵人丞、出雲守 忠隣の曾祖父公条と同時代の人
超誉存牛(1469-1550)知恩院25世 松平長親の弟 忠隣の曾祖父公条と同時代の人
※松平長親や超誉存牛など都で活躍した人たちが、大久保忠員に三条西公条の娘を嫁がせる役目を果たした可能性がある。
石田三成(1560-1600)豊臣秀吉家臣 奉行 佐和山城主
井伊直政(1561-1602)徳川四天王 高崎城主 佐和山城主
井伊直孝(1590-1659)井伊直政二男 彦根城主
南光坊天海(1539-1643) 家康の参謀 朝廷との調整役 大僧正
寛政重修諸家譜大久保家部分