住吉大社は神功皇后(じんぐうこうごう)が建立しました。
ここには、三韓征伐での航海の無事と戦いを勝利に導いた三神が祀られています。
そして神功皇后自身も三神と共にここに鎮まっています。
幸寿門をくぐって境内に入ると、
驚くことに本殿が4棟もあります。
そして、四棟ある本殿のそれぞれに神が祀られています。
建立は、神功皇后摂政11年(西暦211年)です。
住吉神宮の祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神と神功皇后自身です。
神功皇后は三韓征伐を終えると、應神天皇を出産されました。
應神天皇が生まれてしばらくは、九州に滞在されたましたが
その後大阪に戻り、神功皇后は住吉大社を建立されました。
御祭神は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、
表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神と、住吉大社を建立した神功皇后が祀られています。
この三神がどのような神様なのかのエピソードが、古事記の中にあります。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)のいる黄泉の国から逃れてきた出来事が古事記に残されていますが、
逃れてきた伊弉諾尊が、死の世界の穢れを落とすために川で禊(みそぎ)ぎを行ったときに
川の底から底筒男命(そこつつのおのみこと)、水中の中ほどから中筒男命(なかつつのおのみこと)、
川面から表筒男命(うわつつのおのみこと) の三神が生まれました。
そして神功皇后は三韓征伐の神託を得てその航海の安全と戦に勝利できたのは
この三神の加護によるとして、ここに住吉大社を建立し鎮祭されました。
住吉大社の祭神三神と神功皇后の社殿
四つある社殿の第一本宮には 底筒男命(そこつつのおのみこと)が、
次の、第二本宮には 中筒男命(なかつつのおのみこと)が、
また次の、第三本宮には 表筒男命(うわつつのおのみこと)が祀られています。
そして、第四本宮には 神功皇后(じんぐうこうごう)(息長足姫命(おきながたらしひめのみこと))自らが祀られています。
また、三韓征伐を終えてこの地に戻ってきた神功皇后は、
ここで三神とともに過ごすことを望まれたと伝わっています。
そのことを伝える住吉大社伝来の「住吉大社神代記」には、
神功皇后御自らが「吾は御大神と共に相住まむ」と仰せられて自身の宮を定めたとあります。
自分が居場所を決めるという、神功皇后のお考えの中には、
何かことあれば、ここからすぐに船出して瀬戸内海の向こうにある九州や、
自らが平定した三韓を鎮めるという備えと指導力、
そして、その強い意志示したのでしょう。
だからこそ、神功皇后が「吾は御大神と共に相住まむ」と仰せられたのには、
深い意味が込められていたと思えるのです。
そして、神功皇后の、そのような思いを象徴するかのように、
住吉大社の総ての本殿は西の海に向かって建てられています。
当時は、住吉大社の目の前がすぐ瀬戸内海の東の端に位置する湊だったのです。
やがて住吉大社は遣隋使、遣唐使船の出発点となった。
400年の後の推古天皇の時代から住吉大社が遣隋使、遣唐使の出発点となりました。
住吉大社由緒 https://www.sumiyoshitaisha.net/about/origin.html