石川数正の墓所のある本宗寺。
石川数正 天文2年(1533年)-文禄2年(1593年)1592?は
家康の片腕として酒井忠次と共に大活躍した武将です。
主君の家康は1543-1616なので石川数正は家康より10歳年上です。
桶狭間の戦い後にそのまま岡崎城に入り駿府には戻らず、それによって駿府に残されてた正室の瀬名(築山殿)と嫡男信康を取り戻した。
永禄5年(1562年織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。
酒井忠次と共に戦った数々の戦での功績も大きい。
また母は、家康の母の於大の姉です。
石川数正は、浄土真宗(一向宗)だったので、三河にある浄土真宗の寺の大パトロンでした。
ただ、三河一向一揆では浄土宗に改宗し家康に味方して一揆勢と戦っています。
本能寺の変以降、秀吉との対応を巡る家臣団との考えの相違から家康の元を出て秀吉に帰順したことは有名な話です。
ただ、徳川家康が天下統一後は嫡男康長は大久保長安事件に連座させられ松本から改易、追放されています。
家康からお家を断絶させられたと考えてるのが考えやすいと思います。
秀吉から松本を与えられていたので、
菩提寺は松本にある大宝山 専修院 正行寺。浄土真宗(大谷派)です。
また、出身地でもあり城主でもあった岡崎市の本宗寺に墓所があります。
本宗寺
1468年の創建当時は現在の福岡町にありましたが、三河一向一揆の一拠点として家康に対抗したため破壊され、当地にに再建されたものです。
家康に人質時代から従い、桶狭間の戦いの後、駿府に人質となっていた家康の祭祀を取り戻した石川数正の墓があります。
また数正の母?であり、破壊された当寺の再建を願い出た妙西尼もここに眠っています。
岡崎市指定文化財
本宗寺
絵画 絹本著色芳春院妙西尼公像 一幅
白い被り物をして墨染の法衣をまとい、数珠を手にし
床畳に安坐する。細い暢達な墨線でとらえた端正な顔
の描写、衣文線に施した墨のぼかしなどに非凡な筆技が
うかがわれる。寺伝によれば像主が剃髪の際に今川分延
に命じて写させたといわれている。79.5㎝×37.0㎝。
16世紀(桃山時代)作。
妙西尼(妙春尼とも)は刈谷城主水野忠政の娘で石川
清兼に嫁した。徳川家康の母伝通院(於大)とは姉妹で
ある。永禄6年(1563)~7年の三河一向一揆で破却追放
の憂き目にあっていた真宗教団の再興を家康に嘆願し、
天正3年(1598)2月7日本寺草案で没した(84歳)。
昭和62年7月15日指定
岡崎市教育委員会
絹本著色芳春院妙西尼公像
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https://mikawa-komachi.jp/history/hoshunin.html#group=nogroup&photo=0
本宗寺HP