写真 歴史 風景

写真:二むらや三河に出る秋の月 岳輅

2024/6/7

二むらや三河に出(いず)る秋の月   岳輅(がくろ) 二村山(ふたむらやま)は昔から鎌倉街道の歌枕として知られ、眺望に優れていた。 江戸時代の中頃名古屋乗西寺の住職岳輅(がくろ)が志朗とと月見に訪れた際に詠んだ句で、 寛政6年(1794)の「麻刈集」に載っている。 豊明市観光協会 名古屋市緑区と豊明市の境あたりにある鎌倉街道の名勝、二村山(ふたむらやま)に登りました。 といっても標高80mほどの山にある鎌倉街道の峠です。 そこにあった立て札を見て岳輅と士朗がわざわざ名古屋から見に来た三河に昇る月をどうして ...

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写真:小堤西池のかきつばたが見頃です。2024/05/15@刈谷市

2024/5/16

5/15小堤西池のかきつばたが見頃です。 先週よりも花に勢いが感じられます。 池の東のシャリンバイの白い花が満開になってその当たりが華やいでいます。 そこでは、かきつばたの花はシャリンバイに主役の座を譲って引き立て役に回っています。 今年は池の水量が多い 今年は池の水が多いので、水面に映り込むかきつばたの花が波に揺らいで融けていくような風情があります。 こんどの週末は今年のかきつばたの見納めになるかも知れません。 かきつばたと混生している葦が伸び始めているからです。 葦が伸びてくると背の低いかきつばたはど ...

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写真:2024年5月9日、国の天然記念物小堤西池のかきつばたが見頃をむかえています。@刈谷市

2024/5/16

2024年5月9日、国の天然記念物、刈谷市にある小堤西池のかきつばたが見頃です。 4月27日に知立神社でかきつばたが咲いているのを見て、その足で小堤西池のかきつばたの様子を確かめに訪れた時はに開花にはほど遠い様子でしたが、それから10日ほどで一気に見頃になりました。 小堤西池のかきつばたは天然記念物なので自然の中にあるがままの姿です。 在原業平がこの辺りを通ったときの景色を伝えています。 ここから少し東にある三河八橋の無量寿寺に行くまでもなく、この辺り一帯は見渡す限りこの風景が広がっていたのだと思いながら ...

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写真:2024年、知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした。@刈谷市

2024/4/27

知立神社のかきつばたが早く咲きましたが近くの小堤西池のかきつばたの開花はまだでした、 昨年は5月の初めに花が咲き始めました。 先日、知立神社のかきつばたが雨の中でツツジと一緒に美しく咲いていたので、今年は開花が早いのかと思って近くの天然記念物小堤西池に自生するかきつばたの様子を見に行きました。 結果はご覧のとおり花はまだまだでした。 とは言っても。そろそろ開花の時期を迎えます。 https://okazin86.com/chiryu

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写真:尾張国二宮 大縣神社は濃尾平野を開拓者した古代の人たちの守り神。@犬山市

2024/4/30

尾張国二宮 大縣神社(おおあがたじんじゃ)は濃尾平野を開拓した古代の人たちの守り神です。 犬山市にあります。 国宝の犬山城から南南東7㎞にある本宮山の麓にある神社です。 元は本宮山、(真霊山(みかみやま)ともいう)の山頂に祀られていた神様ですが、大縣神社の由緒書によると垂仁天皇27年(BC3年)に麓の現在地に遷座されたそうです。 祭神は尾張国開拓の祖神、大縣大神です。 尾張国一宮の真清田神社の祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)も国土開拓、産業開発の神様なので、濃尾平野の開拓と開発のために尽力された神 ...

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写真:尾張国一宮 真清田神社@一宮市

2024/4/22

尾張国一宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)は愛知県一宮市にある歴史ある神社です。 参道はアーケードのある大きな商店街になっていて、市役所も門前に立地しています。 御由緒 神社名 真清田神社(ますみだじんじゃ) 祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと) 鎮座地 愛知県一宮市真清田1ノ1 祭礼日 四月三日(桃花祭) 当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊瓊杵尊の御兄神に坐しまし国土開発、産業守護の神として 御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばれた貴い神様であります。 創建につい ...

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写真:知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。@知立市

2024/4/22

知立神社にある東公園ではかきつばたとツツジが満開です。 花菖蒲園(西公園)はまだ咲いていません。 強く降る雨のかなで、ツツジとかきつばたが薄暗い神社の森を背景にして光るように咲いています。 ツツジもかきつばたも例年に比べると咲くのが早いのですが、特にかきつばたがツツジと同じタイミングで咲いているのは、季節がこれまでとは大きく変化してきているのでしょう。 強い雨のせいで知立神社の社号標を撮り忘れました。

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写真:谷汲山華厳寺の仁王像と門前町の桜祭り@岐阜県揖斐川郡

2024/4/15

西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)は、その山号と寺号は醍醐天皇より賜ったと伝えられています。 お寺の場所は、根尾川が山から濃尾平野に流れでる手前の西に位置しています。 その根尾川は濃尾平野にでて木曽三川(きそさんせん)のひとつ揖斐川(いびがわ)に合流します。木曽三川とは長良川、木曽川、揖斐川のことをこのように呼びます。 谷汲山華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られています。 春には桜、秋には紅葉の名所として多くの参拝者を集めま ...

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写真:壬申の乱で大海人皇子に破れた大友皇子の墓と伝わる古墳があります。@岡崎市

2024/4/10

壬申の乱(じんしんのらん・672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ)に破れた大友皇子(おおとものおうじ)の墓と伝わる古墳が岡崎市にあります。 壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の弟、大海人皇子と天智天皇の息子、大友皇子との戦いのことです。 近年では、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)(のちの持統天皇)が夫である大海人皇子(後の天智堪能)の皇位継承のために、近江を去り吉野でいの準備を行い、兄である天智天皇が亡くなった後に、兄の息子の大友皇子を討つことを説得したのではという説も有力になっているよ ...

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写真:満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市

2024/4/10

満開の根尾谷淡墨桜。@本巣市 1500年前に迫害を避けてこの地(岐阜県本巣市根尾)に潜んでいた男大迹王(おほどのおおきみ)が継体天皇として即位するためにこの地を去るにあたり形見として植えられた桜です。 「身の代と残す桜は薄住よ 千代に其の名を栄盛(さか)へ止(とど)むる」。 歌まで添えられています。 継体天皇(男大迹王)は福井で育てられ、迫害を避けてこの地に隠れていました。 そういった歴史上の出来事を知る、やんごとなき桜の木です。 【PR】初心者も安心のサポート充実【DMM FX】 国指定天然記念物 根尾 ...

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写真 徳川家康 戦国の城 歴史

写真:現代に言葉として伝わる大坂の陣での出来事、外堀を埋める!。難攻不落の大阪城外堀の美しい石垣の眺めと紅葉。

400年以上前の大坂の陣での出来事、「外堀を埋める!」。

難攻不落の名城「大阪城」外堀の美しい石垣の眺めと紅葉が晩秋を彩っていました。

外堀を埋める

現代にまでその言葉が伝わり、日常よく交渉ごとなどで使われている大坂の陣での象徴的な出来事をルーツとしている「外堀を埋める」!。

大坂の陣の当時とは堀や城の位置、形は違っているとは言え、実際にこの場に来てみると、外堀を越えて城内に攻め入るのは無理です。

そこに立ってみると、真田丸をつくった意味も家康が大砲を使った理由が誰でもすぐに飲み込めます。

どんなに大軍が囲んだとしても、こんな見事な外堀が城を守っていたらどうしようもありません。

一方で大阪城に籠城する秀頼、淀殿も堀と石垣に守られているだけでは徳川方に勝つことはできません。

勝つためには城の外に出て敵と戦わなければラチが開きません。

外堀は城の周りを囲っている現在の外堀ではなく、イラストのような広大なエリアを囲う堀でした。

その打開策として、大阪城外にその出丸(でまる)として砦が構築されました。

有名な真田丸などです。

その真田丸の真田幸村が大活躍したことはもうご存知のとおりです。

100門以上の大砲の砲弾を絶え間なく城内に打ち込む攻撃を仕掛けた家康は勝ちました(大阪冬の陣1614年)。

大阪城は圧倒的な堀と石垣に守られているので、寄せ手には攻め寄せられないことは明らかです。

そこで寄せ手の大将である徳川家康は、遠くから城内を攻撃するために100門を越える大砲(オランダやイギリス製のもの含まれます)で城内をめがけて砲撃し続けた結果、その威力が奏功して大阪方が講和に応じることで冬の陣が収束します。

当時の最新兵器による飽和攻撃と思います。

徳川方の圧倒的な攻撃に耐えきれずに豊田臣方は講和に救いを求めました。

この講和の条件のひとつとして、城の外堀を埋める事がありました。

戦国時代は外堀を埋めることは講和の条件としてはよくあることでしたが、それは儀礼的に石垣を少し崩す程度のものとの常識があったようです。

豊臣方もその程度のことと考えていたのでしょう。

しかし徳川方には、知恵者本多正信がいました。

この辺りの狸ぶりで気の合う?家康と正信の2人は(本当かどうかはわかりませんが)北側の堀を残して城の東西と南の外堀を本気で埋めてしまいました。

しかし豊臣秀頼と淀殿に家康が突きつけたいくつかの講和条件である豊臣秀頼の移封を受け入れなかったことで再び始まった大阪城夏の陣(1615年)では、外堀のない大阪城は、徳川軍にあっという間に攻め込まれてしまい3日ほどで決着が付いてしまします。

城内で敵方に追われた秀頼と淀殿等は天守閣下の山里丸で自害したのでした。

現在、その場所に碑が建てられています。

秀頼・淀殿ら自刃の地

慶長20年(=元和元年、1615)の大阪夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。

それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一角に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

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