家康は19歳で岡崎城主になりました。
桶狭間の戦いのあと、自分が生まれた岡崎城に戻ったのです。
その後、この城を拠点にして対抗勢力を討伐し三河を掌握しました。
そして、1570年(元亀元年)に浜松城を築城し東て領地拡大を目指しています。
しかし、家康は19歳で岡崎城主となってからの10年間で国の基板を作りました。
それが後の家康の運命を決定づけました。
家康の岡崎での成功により家臣団が彼についてきた
言ってみれば、岡崎での成功により家臣団が彼についてきたといえます。
そして、その後の多くの苦難に遭遇しますが、家康が心底頼れる家臣がいつも近くにいました。
それがあったからこそ、幾多の苦難を乗り越えてこられたのでしょう。
あまり強うそうに見えないのに戦に勝ってしまうのは家臣団の強さゆえです。
しかし、兵の采配のセンスと頭の良さは、大高城への兵糧搬入により、家康の野戦能力が敵将にも伝わります。
まだ若い家康が並の大将ではないことを誰もが認めるところとなります。
特にこれまで敵将だった織田信長が家康が桶狭間の戦いの後、家康に同盟を持ちかけます。
19歳の時に岡崎城主となった家康の三河を治める力を、敵だった信長が評価していたことがわかります。
1573年1月(元亀3年の12月)の三方原の戦いで西進してきた武田信玄に負けてしまいます。
それでも家来達の命をかけた戦いの甲斐あって家康は命を落しませんでした。
そのときに命をかけてくれた家来たちの活躍で更なる高みを目指すことができました。
一方の武田信玄は三方ヶ原の戦いに勝った後、1573年(元亀4年)引き続き野田城を攻めます。
しかし、その後4月に亡くなってしまいました。
家康は天も味方する強運の持ち主です。
岡崎城はどっしりとした構えの天守閣で安定感があります。また掘りが深く川が自然の要害になっていて攻めにくい構造になっています。
岡崎市の史跡指定の申請調では、
岡崎城は、三河守護職であり大草城主の西郷弾正左衛門頼嗣(さいごうだんじょうざえもんよりつぐ)が享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて築城し、その後松平清康(後の徳川家)に譲り、以来徳川幕府発祥の地となり、田中、本多、水野、松平、本多を経て、明治四年廃藩、同六年から七年にとりこぼち(建築物を壊す)となったが、同八年以来公演として本丸の保存につとめ、昭和三十四年三月三十日三層五重の天守閣と井戸やぐら、附やぐらが復元され、一層昔をしのばせるものである。
との理由で史跡指定申請されています。
また、岡崎城は東西に流れて矢作川に合流する乙川の北岸の龍頭山(標高24m)に立地しています。
岡崎城主だった祖父、父、長男は若くして亡くなっていて家康の悲しみがこの城ある。
岡崎城主だった家康の祖父の清康は25歳で亡くなっています。
また、父の広忠は24歳で亡くなりました。
家康の長男の信康は21歳で亡くなっています。
しかし、家康自身は浜松、駿府、江戸と順番に拠点を移し、75歳(満73歳)で駿府で亡くなっています。
松平家は、事件などで当主が若くして亡くかったこと以外は長生きの家系です。
家康が関東異封となり三河、静岡を離れて江戸に拠点を移しました。
家康が三河を離れた後には、豊臣秀吉の家来だった田中吉政が11年間岡崎城主を務めています。
その後、徳川幕府の時代になってからは、水野氏、松平氏、本多氏がそれぞれ城主を務めて明治時代を迎えます。
そんな歴史があるので、写真のように岡崎城の瓦は徳川の三つ葉葵の紋ではなく本多家の立葵の紋になっているところもあります。
岡崎城の瓦の紋は三つ葉葵だと思っている方もいると思ます。
しかし、その後本多家が岡崎藩主となり、修繕などのときに本多家の立葵の紋にしたのでしょう。
大手門を入るとすぐに三河武士の館や徳川家康、本多平八郎忠勝の銅像があります。
また浜松時代に家康が書かせた「しかみ像」の石像も設置されています。
岡崎城にある家康の銅像は、なかなか上手く撮れません。
それぞれの像の写真は、時間帯によって日の高さや向きが異なります。
タイミングによっては、顔が陰になってしまって上手く撮れないことがあります。
カメラの機能が進化したので比較的銅像の顔が暗くならずに撮れるようになりました。
それでも、スマホのカメラではなかなかうまく撮り難いと思います。
岡崎市HP https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1170/p005336.html