苗木城遠山資料館は明治まで続いた苗木藩一万五百石の書庫と蔵そのものです。
その資料が苗木遠山氏の始まりを教えてくれます。
関ヶ原の戦い後に一万五百石で始まった苗木藩は大政奉還、王政復古までの260年ほどの年月を
禄高を多少減らしながらも大名格を維持しました。
資料館の資料から、城持ち大名苗木藩遠山氏の懸命な努力と胃が痛くなるような状況が伝わってきます。
苗木藩遠山氏は関ケ原の戦いの後、その戦功として徳川幕府から大名として苗木領を安堵されています。
しかし、そもそも遠山氏は関ケ原の戦いよりも400年前の鎌倉時代に鎌倉幕府の地頭として恵那郡(恵那市、中津川市の大部分)の大部分を賜り、岩村を拠点として一帯を治めていました。
岩村は、苗木(中津川)から豊田市方向に車で30分ほど走ったところにある街です。
最近ではWRC世界ラリー選手権のコースにもなった城下町です。
また岩村からさらに20分ほど西に車で行ったところの明智までが遠山荘でした。
現在の恵那市岩村町と明智町になります。
源頼朝の加藤景廉への下文
花押 かおう
下 美濃國恵那郡 くだす みののくに えなぐん の
内遠山庄之事 うち とおやましょうのこと
右為勲功之賞遠山加藤次 みぎ くんこうのためしょうす とおやま かとうじ
景廉所充行也者早令 かげかど あて おこなうところの ものなり そうれい
領知可致専所務之状 りょうち もっぱら つとめるところといたすべし の じょう
如件 くだんのごとし
建久六年三月三日 1195年3月3日
これは源頼朝から加藤景廉(かとうかげかど)に下された下文(くだしぶみ)の写しです。
くだし読み部分は稚拙ですが筆者が解釈しています。
拙速ではありますが意味はほぼ伝わるかると思います。
「遠山荘を恩賞として与えるので、急ぎその荘園経営に専従せよ」と申し渡されています。
源頼朝から加藤景廉に下されたこの下文が加藤景廉が遠山荘の地頭であることを証明しています。
ここに、遠山加藤氏は遠山荘の拠点である岩村を本拠地として始まりました。
その後、遠山加藤氏は岩村から明智遠山氏、苗木遠山氏に分家して荘園経営が続きます。
そのようにして苗木遠山氏の歴史も始まりました。
遠山氏三代目の景村みずからが苗木に進出します。
苗木は、本来岩村で景廉から数えて三代目の遠山景村が跡継ぎですが、その惣領は弟に譲り、岩村から北に進み出て、中津川で木曽川を越えて苗木に進出します。
下の遠山氏系図の景村の部分を見ると、家系図の流れで本家筋から景村が分かれたことがわかります。
系図には苗木の祖、景村此の人か未詳と記されていますが、もしかしたら景村此の人没未詳と書かれているのかもわかりません。
木曽川を超えて苗木より北は、開拓開墾するには岩村や明智よりも平坦な土地が多く、良質の森林資源やコメの生産など、この土地の経済的な可能性を見込み、自らが陣頭に立って苗木に進出したのではないでしょうか。
わたしにはそう思えます。
良質の材木を生産し木曽川の水運を利用して運び出すには平坦な地形が有利です。
しかし、残念なことに、徳川幕府の時代になり広大な森林資源が、苗木藩から召し上げられてしまい、付知(つけち)、加子母(かしも)、川上は尾張藩の飛び地となってしまいます。
とても笑って済ますことのできないほどの出来事だと思います。
苗木の経済的な発展の可能性を信じてこの土地を鎌倉時代から開拓してきた苗木遠山氏にとっては、やり場のない憤りにそれはそれは夜も眠れなかったに違いありません。