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国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神、石清水八幡宮とそのエピソード@八幡市

石清水八幡宮は、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神様です。

そして全国屈指の厄除けの神様です。

鎮座 貞観元(859)年

石清水八幡宮の起源 

平安時代初め、清和天皇の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもりました。

そして日夜熱祷を捧げたところ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙りました。

そして、同年に男山に八幡大神の御神霊を奉安したのが石清水八幡宮の起源です。

場所 京都府八幡市八幡高坊30

御祭神 

中御前 応神天皇(おうじんてんのう)

西御前 比咩大神(ひめおおかみ)

東御前 神功皇后(じんぐうこうごう)

本殿は3代将軍徳川家光の造替えによるもので寛永11年(1634)に完成、国宝。

石清水八幡宮の八幡大神は神様であって仏様でもあるので八幡大菩薩と呼ばれていた。

石清水八幡宮の八幡大神は「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と呼ばれていました。

平家物語の屋島中に八幡大菩薩が書かれた有名な場面があります。

那須与一(なすのよいち 1169?-1189?)が屋島の戦いで平家が浮かべた船の扇の的を射る場面です。

そのときに、雑念を払い目を閉じ心静めて神に祈る場面の描写があります。

そのとき、那須与一は「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ・・・この矢、外させたまうな」と心の中で唱えます。

その八幡大菩薩とは石清水八幡宮の八幡大神のことです。

◆国立公文図書館明暦2年版平家物語 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/heikemonogatari/contents/photo.html?m=64&pt=2&pm=1&cno=22_1

石清水八幡宮寺は、神社でありお寺でもある当時の最先端を行く宗教施設でした。

僧侶と共に神官や巫女らが仕えていました。

かつての男山には麓の鳥居の辺りから参道にかけては多くの僧が住む坊がありました。

かつての男山には麓の鳥居の辺りから参道にかけては多くの僧が住む坊がありました。

神仏習合の石清水八幡宮ではありましたが、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈によって変化がありました。

御祭神が八幡大菩薩から八幡大神と呼び名が変わります。

それに伴って仏教に関わる施設はなくなってしまいました。

徒然草に書き留められた石清水八幡宮参拝のとあるエピソード

吉田兼好が徒然草の中に石清水八幡宮を参拝した仁和寺(にんなじ)のお坊さんのエピソードを書いています。

仁和寺にいた、ある法師が、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがないことを情けなく思い、ある時思い立ち、一人、徒歩でお参りにいった。(山麓の)極楽寺と高良神社をお参りし、(八幡宮へのお参りは)これだけだと思い込み帰路の途についた。帰った後、傍輩に向って、「ずっと(心に)思っていたこと(八幡宮へのお参り)を果たせた。聞いていた以上に尊さ(八幡大神の御神威)を感じた。ところで、他の参詣者が皆、山へ登っていったが、何か山上にあるのだろうか。行ってみたいとは思ったが、お参りすることが本義であるからと思い、山上までは見に行かなかった。」と言った。

小さなことにも、案内者(指導者)は欲しいものである。

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新幹線で大阪に向かうときには京都駅を出てしばらくすると天王山の麓にさしかかると左に男山が見えてきます。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川・桂川の3本の川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波(なにわ)間の交通の要地です。

新幹線で大阪に向かうときには京都を出るとすぐ左に東寺の五重塔が見えます。

そして右には愛宕山が見えます。

そのまましばらくすると右側に山が迫って来ますが、それが天王山です。

右側に山が迫ってくるタイミングで左側に目を向けると淀川の向こうに石清水八幡宮のある男山が見えます。

石清水八幡宮は厄除の神様ですから、新幹線で通過するときにはいつも心の中で手を合わせています。

そしてこんどは右にサントリー山崎蒸留所の建物が森の緑の中に見えます。

サントリー山崎蒸留所は石清水八幡宮から淀川を挟んで、2500mの距離にあります。

奉納されている伏見の銘酒のなかに、サントリー山崎も奉納されています。

一番近いメーカーがサントリーでしょう。

鎌倉の鶴岡八幡宮建立のエピソード

鎌倉の鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府を築いた源頼朝(1147-1199)の祖先源頼義(みなもとのよりよし 988-1075)が、京都の石清水八幡宮を源氏の氏神として康平6年(1063)に鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました

その後、治承4年(1180年)源頼朝が現在の鶴岡八幡宮のあるところにお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造っています。

創建年次には諸説あるようです。

また、多くの文化財になかに藤原宣孝「大宰府符」当時大宰府の役人であった藤原宣孝(奉行少貮兼大介藤原朝臣)、すなわち後に紫式部の夫となる人物の自筆署名があり、遺された唯一の史料として知られています。

熱田神宮と同じ信長塀

歴代の武将たちが多くの価値あるものを寄進する中、織田信長は熱田神宮に寄進した塀と同じ「信長塀」を寄進し本殿をぐるっと囲い守っています。

石清水八幡宮上空で渦巻く黒い雲

石清水八幡宮は厄除の神様なので 本日の参詣者の厄払いを行っているところかも知れません。

あんなに晴れていたのに八幡宮から降りてきたら、あたりが薄暗くなるほど曇ってきました。

男山を見上げると、石清水八幡宮の本殿の上に渦巻く不思議な黒い雲がありました。

有り難いことです。

 

 

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