知恩院の三門は二代将軍徳川秀忠公が寄進、建立されたものです。
石段を上がってすぐの三門前にある説明には
三門(国宝)
この三門は山解脱門(空・夢想・無策)の意味を持つ。
元和7年(1621)徳川二代将軍秀忠公の寄進によって建立され、
一階の桁行は26.6メートル、礎石より二階棟瓦頂部まで、23.8メートルある。
入母屋造、本瓦葺(いりもやづくり、ほんがわらぶき)の五間三戸二階二重門で
左右に山廊のある三門特有の形式を持っている。
上層の内部は極彩色を施し須弥壇中央に釈迦尼佛、
その左右に須達長者と善財童子、脇壇にの左右に
十六羅漢像を安置する。
三門正面尼掲げる「華頂山」の額は霊元天皇の宸筆である。
平成14年5月国宝に指定された。
総本山知恩院
と説明されています。
そして門の幅は50mあります。


そもそも、知恩院と徳川家(松平家)のつながりは、
松平家第4代親忠の子で、第5代松平長親の弟、
超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)(1469-1549)が
知恩院第25世、住持を務めたときにまで遡ります。
時の天皇(後柏原天皇)の命でした。
ちなみに家康(1543-1616)は松平家の第9代です。
江戸に移った家康が増上寺を菩提寺にした理由
江戸に移った家康が増上寺を菩提寺にした理由は、
松平氏出身の超誉存牛が三河の信光明寺で師事した存冏(ぞんげい)の家系が武家の千葉氏でした。
また、存冏は、増上寺住持一世、聖聡(しょうそう)の元で出家しています。
そして存冏は聖聡(しょうそう)とは同族にあたることから
家康の同族の存牛とも繋がりが深いことを思い、
増上寺を江戸での菩提寺としたのではないかと考えられます。
こういった流れを考えると、家康が増上寺を江戸の菩提寺としたのは、
単なる偶然であるようには思えません。
家康が江戸に入った当時の増上寺12世源誉存応(げんよぞんのう)も存牛、存冏との関係や
松平氏と知恩院との繋がりをよく知っていたことから、
家康も心を許し、お互いに心を通わせたのだろうと思います。
知恩院三門 https://www.chion-in.or.jp/highlight/building/sanmon.php